「…ら…ん」
暗闇から浮かび上がる痺れるような微かな酩酊の中、白乱は自分を呼ぶいくつかの声を知覚した。
「白乱(びゃくらん)っ!」
白い鬼は緩やかに瞳を開ける。
そこには心配げにのぞき込んでいる青い鬼と赤い鬼の顔があった。
「もう、大丈夫だな…」
枕元で施術をしていた緑の鬼にも安堵が浮かぶ。
「私は…」
言いかけて白乱は思い出した。
自分たちに仕掛けられた『大江山』の罠は、たくさん守部の力で打ち破ることができたが、首謀者である阿倍童子には逃げられてしまっていた。
敵の動向を調べようとした白乱は、そこで思いもかけない人物との再会をすることになる。
京都御門(みかど)一門の中にいた貴船の巫女は、遠い日、自分を鬼に落とした姉、湧泉だったのだ。
『忘れたのかえ、志郎。そなたは永遠に妾のものじゃ』
甦る悪夢が白乱をかんじがらめに呪縛し、『鬼火』の状態にまで後退させていたのである。
自らの意志で相手の『呪』を抜け出せなければ、碧魚(みどりな)が蘇生を図ることもできなかっただろう。
白乱は、迷宮のような悪夢を思い出し改めて湧泉の恐ろしさを実感した。
かつて湧泉は、志郎篁に関わる全ての者に対してさまざまな『呪』を施していた。
それは、幼かった妹は言うに及ばず、犬や鳥に至るまですべての生き物に及んでいたのだ。
妄執は、やがて湧泉自身をも鬼に変えていた。
ただし湧泉は、役を返すための童子(おに)ではなく、怨霊と呼ばれる類の妖(おに)になってしまったのである。
阿部童子の下に仕える貴船の巫女は、その強い怨念を持って、さまざまなものたちを呪殺していた。
『湧泉…今度こそ終わりにする時が来たようだ…』
白乱は、細く長い息をつく。
その耳に、風の鬼の歌う歌が聞こえてきた。
「紫炎人(しらと)…か?聞いたことのない歌だな」
碧魚に助けられ体を起こしながら白乱は、何気なく聞いた。
「ああ、お前のために、わざわざ主がとっつぁんに教えたんだ。こいつの意志を届けるために一番いい歌なんだってよ」
夏木(かき)はそう言って、勇樹の胸から抜いた大剣を差し出した。
それは、白乱が夢の底でであった少女が携えていた剣だった。
「御方様も、姫巫女も、みんなとっても心配していたんだよ。戻ってこれて本当によかった。僕、みんなに教えてくるっ!」
一水(いっすい)は勢いよく立ち上がると、飛び出していった。
「待てよ、チビっ!白乱、今のは貸しだからなっ!」
火の鬼は、振り向きざまに軽くウインクすると、水の鬼を追いかけて姿を消した。
マンションの屋上に設えられた回復用の魔方陣に、白乱は碧魚と二人残される。
少し離れた場所で禍歌の結界を張る紫炎人は、まだ歌い続けていた。
「穏やかな禍歌だな…」
珍しく白い鬼は優しい笑顔を見せる。
「主の故郷の子守唄だそうだ。闇が正しい眠りだった頃の遺産かもしれん…」
碧魚はそう言うと、白乱と共に風の鬼の歌に耳を傾けた。
やがて、この赤い土の上に緑の子供たちが遊ぶ
背伸びをする子供たちの背中を風が撫でるよ…
京都御門との最終決戦は近い。
地上にもたらされた『絶望(ハハキリ)』と戦うために、鬼たちはまず自分たちの絶望を越えなければならない。
『あきらめちゃ駄目…』
白い鬼の脳裏に落日色の瞳の少女が過ぎる。
白乱は、長い睫を伏せて緩やかに微笑むと、立ち上がった。
いつか再び、もう一度『人』として歩き出すために。
季節は晩春。
もう、桜はその枝に花を残していなかった。