最初に人が集ったのは、「鬼太郎座」と言う場所でした。
 「鬼太郎座」の目的は、昭和60年からフジTVで放映された水木しげる原作「ゲゲゲの鬼太郎」をモチーフにした、オリジナル(つまり同人作品として)ダイナビジョン「女禍(じょか)」の自主制作。
 ファンが高じて作品を追いかけること自体は珍しいものではなく、その形も様々ですが、映画と言うのは特例中の特例でしょう。
 企画の段階から水木先生に趣旨を聞いて頂き、脚本と絵コンテにも目を通して頂いた上での制作となったことも、同人活動としては特例でした。
 こうして発起人の笠井監督(後の有里紅良)の呼びかけや口コミで鬼太郎ファンやFCが集まり、次第に「鬼太郎座」と言う場所が形作られていきました。
 とは言え、企業でも何でもない普通の個人の始めること、人手も資金も当然足りません。資金は必要だけど、お金をかければ出来るような作品にはしたくない。いくら人手が必要でも、人を雇って作らせたのでは自主制作の意味がない。それを支えたのが、有志からの協力でした。
 年齢も性別も住んでいる場所もばらばら、プロも素人も一緒くた。昨日まで顔さえ知らなかった者同士、全く普通の会社員が高校生が、必死で絵を描き色を塗り、セル画を仕上げていきました。その、呆れるほどに不揃いな集団をつないでいたのは、作品を心から愛する気持ち、大好きなものを自分たちの手で創ることへの共感と、「見たい」と言う純粋な願いでした。
 カンパやお便りを下さった方まで含めるのなら、関わった人は1000人に達するでしょう。
 励ましを送る者、受け取る者。遠くにいる者、近くにいる者。呼びかける者、応える者。
「大好きな鬼太郎に会いたい。」
 たったひとつの願いに向かい、様々な場所からそれぞれの形で確かに同じゴールを目指した、その一人一人が「鬼太郎座」でした。

STORY OF
JO-KA
昭和61年頃 鬼太郎座発足
オリジナルダイナビジョン「女禍(じょか)」の自主制作を目的とした鬼太郎ファンの集合体。
手作りの制作活動を展開しながら、制作状況を知らせる通信紙「瓦版」を隔月で発行した。
昭和63年1月 声の最終オーデション
声優も一般公募によるオーディションで決定した。猫娘役を射止めたのは、当時仙台の高校生だった夢来鳥ねむ。地獄童子役の水滝彼方は栃木の中学生だった。(役が決まった後三重に引越し、大変苦労したらしい。)
ちなみに、目玉親父の声だけは本物(田の中氏)に依頼した。無理もない。
昭和63年4月 予告編上映会
東京都・サンライフ練馬にて開催。
昭和63年8月 予告中編上映会
神奈川県・磯子会館にて開催。
平成元年3月 妖怪ちゃんぽん上映会
東京都・神田パンセにて開催。「女禍」に合わせ、3幕のアトラクション(演劇)つき。後に続くイベントの基本形が、すでにここにあった。後日、上映会の様子を伝える「瓦版」発行をもって鬼太郎座解散。
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