【5】
 みち子とれい子は、光宮学園の大聖堂のトイレにたどり着いていた。
 れい子の予想通り、彼女たちの霊力が余りにも微弱であるために、かえって警戒されることなく侵入することが出来たのだ。
「こ、ここからが本番よみち子さん、落ち着いて…」
「あ、あなたこそ落ち着いたほうがいいわよ、れい子さん」
 しっかりと手をつなぎ合ったまま、二人は記憶をたどって征徒会執行部のある建物を目指す。
女子寮を抜け、センターホールを通り、二人は着実に征徒会室に近づいていった。

「お薬の支度が出来ましたわ、鷲様」
「ああ、ありがとう。そこに置いておいてくれ、先に汗を流してくる。副会長、君はもう休みたまえ」
「ありがとうございます鷲様」
 微かに頬を染める貴子には目もくれず、鷲は上着のボタンを乱暴に外しながら自室に向かった。
 征徒会室に続く鷲の自室には、大きなバスタブにお湯の満たされたバスルームがある。
 鷲はどういうわけかシャワーが嫌いだった。
 叩きつける水は、鷲の気持ちを言い知れぬ不安に誘ったからだ。
 僅かにアロマの香りのする湯船に躊躇なく体を沈め、鷲はもう一度深い溜め息を吐いた。
「どこにいる…北條遥都…」
 逆立った神経が、温かなお湯の中で少しずつ落ち着いていく。
 緊張がほぐれ、鷲の顔が年相応の少年らしさを取り戻す頃、バスルームの横を走り抜ける二つの影があった。
「早く、早く、今のうちよ誰もいないわ、れい子さん」
「ま、待ってみち子さん」
 ここは敵の本拠地の真っ只中、しかも総大将のプライベートルームなのだ。
 光宮に無残に消された学校霊は数え切れない。
一歩間違えば自分たちもそうなることを二人とも熟知していた。
一刻も早く目的を達して逃げなくてはならない。
 とにかく二人は焦っていた。
 机の引き出しやカップボードを探す手が、緊張のあまりに強ばる。
 もどかしさに二人は涙目になった。

 湯船に浸かったまま、鷲は夢を見ている。

『耶蘇様…、耶蘇様…。戦は終わりますか?いつ終わりますか?…』
 切れ切れに子供の声が聞こえる。
『どこにあるの?…はらいそは…どこに…』
 舞い降りる白い鳩が僕の手にとまる。
『奇跡だ!天使(あまつかい)さまだ!!』
 違う…僕は…僕はただ…。
真っ赤な鞠が弾む。
 あれは…あれは…?
 鞠を手にした少女が僕を見ている。
 でも、どんなに目を凝らしても顔が見えない…。
 少女の唇が何かを呟いている。
『と…き…さま…!』

ガシャアアン!!

突然の物音に、鷲は目を覚ました。

 カップボードから落ちたグラスが床で粉々になっている。
 みち子とれい子は顔を見合わせたまま固まっていた。
「そこで何をしている!」
 突然後ろから声をかけられ、二人は文字通り口から心臓が飛び出るほど驚いた。
 振り向くと、そこには光宮征徒会長一條鷲が白いバスローブを羽織っただけの無造作な姿で二人を見下ろしている。
「あ…あの…」
 何か答えようとして口を開きかけたれい子の横で、みち子が叫ぶ。
「あった!お薬!!」
 言うなりみち子は鷲の横のテーブルに置かれた薬に飛びついた。
「貴様っ!何をするっ!」
 かっとなって鷲はみち子を弾き飛ばす。
 激しい電撃に襲われ、みち子は悲鳴を上げながら部屋の端まで転がっていった。
「いやああーっ!みち子さん!」
 れい子はみち子の元に走り寄ってぐったりした相棒の名を何度も呼んだ。
「みち子さん、しっかり、みち子さん、死なないで、みち子さん、みち子さんっ!」
 ズキンッ!
 鷲の胸に鋭い痛みが走る。
 切れ切れの映像とノイズが鷲の意識を襲った。
 早鐘のように波打つ鼓動。
 早まる呼吸。
「くっ…」
 耐え切れず、鷲はその場に膝をついた。

 雨が降っている。
 激しい、激しい雨が。
 雨の向こうに少女が自分を待っている。
 鷲の唇が無意識に言葉を紡ぐ。

「みち…か…?」
 少年の声は血を吐くような悲しみを含んでいた。
 その声のただならぬ様子に、れい子は思わず鷲を振り向く。
「えっ?」
 れい子は我と我が目を疑った。
 確かに鷲はそこにいた。
 だが、れい子の目の前にいる鷲は、さきほどとは別人のようだったのだ。
 悲しみが少年の形をとったとしたら恐らくはこんなふうに見えるかもしれない。
 一條鷲と呼ばれていた少年は、悲しげに微笑んだ。
「持ってお帰り、この薬が必要なんだろう?」
 少年は、れい子に自分の薬を握らせるとバスルームの隣にあるトイレの扉を開けた。
「………あなたは誰?」
 れい子は恐る恐る鷲の背中に声をかける。
「僕は…誰だったか、もう思い出せない…。君たちも忘れないうちにお帰り…さあ、早く」
 鷲に促されて、れい子はみち子を抱えてトイレに入った。
「さようなら…気をつけて」

 物言いたげな少女に少年はもう一度微笑むと、トイレのドアをゆっくりと閉めた。

【6】
 次に鷲が目を覚ましたのは、教団の医療施設だった。
 欠かしてはいけない生命維持のための薬を服用しなかったが為に、鷲はあのあと昏睡状態に陥ったのだ。
 目が覚めた時、鷲はなぜ薬を飲まなかったのか、その間の記憶がすっぽりと欠落していた。
 忽然と消えた薬の行方も分からないままだったのである。
「気分はどうだい?」
 いつもの式服ではなく、白衣に身を包んだ司祭は柔らかな微笑を鷲に向ける。
 エルヴァーン司祭は自ら担当医として鷲の回復にあたっていたのだった。
「はい、良好です。有り難うございます司祭様」
「それは良かった。氷室君から連絡をもらった時は、一瞬冷やっとしたよ」
 鷲の胸元を無造作に緩め、聴診器を当てて、司祭は又柔らかに微笑んだ。
「ところで鷲…君はいくつになった?」
「十四…もうじき十五になります」
「十五か…重なりの年だな…なるほど、ズレはそのせいかも知れないな」
「は…?ズレとおっしゃいますと…?」
 鷲の問いに答えず、司祭はてきぱきとカルテに結果を書き込む。
 ややあって、紫の瞳をした司祭は、懐から錠剤を取り出して自らの口に運んだ。
「薬を替えてみよう」
「え…?」
 鷲はその瞬間、唇が食事をしたり言葉を紡ぐ以外の役割を担うことを初めて学習した。
「司…祭…様」
「思い出さないほうが幸せなことだってある…ちゃんと治療してあげるよ、僕のかわいい鷲…」
 鷲の意識の底で、赤い鞠を持った少女の面影が砕け散る。
 だが、甘やかな毒に犯された少年の心は、もうそれを悲しいとは知覚できなくなっていた。

 安らかな寝息をたてる鷲を残して、エルヴァーン司祭は病室を出る。
 廊下で征徒会副会長が待っていた。
「ずいぶんと念入りな回診ですこと」
「妬いているのかい?」
 鳩のように含み笑って司祭は歩き出した。
「ええ、とても」
 歩調を合わせるように貴子はその後を付いてくる。
「だとしたら考え違いだよ氷室君。鷲は僕にとって大切な作品なんだ。こんなことで潰れてもらっては困るからね」
「作品?」
「『鷲』と言う名は僕が付けたんだ。アキラ・フィロソフォルム…これがなんだか知っているかい?」
「いいえ」
「フフッ、塩化アンモニュウムまたは『鷲の石』と呼ばれる、錬金術の第一工程さ。彼は、魂そのものが連玉魔法(アルケミアル・ルーン)の産物なんだよ」
 美しい紫色の瞳が残酷に細められる。
「月の欠片(ブルーピース)も、たくさんの血を浴びれば紫色に変色し、歪むのを兄者にも見せてやろうと思ってね」
「おっしゃっている意味がよくわかりませんが」
 不機嫌を隠そうともせず、貴子はそっぽを向いた。
「いいんだよ、分からなくても。フフフッ、君は鷲の新しい体を早く見つけてくれればいい。今度の相手は手強いようだが、よもや君が遅れをとるようなことはあるまいね、雪の女王(スノー・クイーン)」
 たっぷりの思い入れをこめて、エルヴァーン司祭は貴子を振り返る。
「もちろんですわ。お任せください、エルヴァーン司祭様」
「結構。いい知らせを待っているよ」
 そういうと、青年司祭は花のように微笑んだ。

 ____鞠が転がる。
 古びた赤い鞠は、今も降り続ける雨の中で持ち主を待っている。
 朽ちることのない『約束』を信じて______。


<天使降る丘>    

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