【第3章 噂V 『悲しみのリリス』】
リリス=フォールダの家は、町長の屋敷から徒歩で20分ほどの住宅街にあった。
ミズィカの町独特の、緑白色の壁を使ったどっしりとした構えの屋敷は、一目で土地の名士の邸宅であることが見てとれる。
だが、今は窓と言う窓にカーテンが引かれ、家そのものが深い悲しみの喪に沈んでいた。
応対に出た、メイドらしい年配の婦人は、フォルスの顔を見るなりかすかに眉をひそめた。
「申し訳ありませんが、お嬢様は今どなたにもお目にかかれる状態ではありませんので…」
「待ってくれロップルダ、今日はリリスのために吟遊詩人を連れてきたんだ。少しでもなぐさめになればと思ってね」
二人のやりとりを聞いていたヴォルフが小声でつぶやく。
「調子のいい小僧だ…」
ヴォルフの反応がおかしかったのかレオンが小さく笑う。
そして、背中に負った竪琴(ルーバ)を持ち直すと、二人が押し問答している玄関先に歩み寄り、片膝をついて頭を垂れた。
「お初にお目にかかります御婦人。私は諸国を旅し、星の数ほど唄を編むことを生業としておりますレオン=ラ=ムーナと申します。
聞けばこちらのお嬢様は、悲しみのあまり言葉をなくしていらっしゃるとのこと。微力ながらお力になれればと思い参上いたししました」
レオンの優雅なあいさつに、メイドは仕事を忘れしどろもどろになる。
「決して御婦人に御迷惑はおかけしません。庭先をお貸し下さい。私が一曲歌い終わってのちお嬢様からのお召しがなければ、そのまま退散いたします。いかがですか?」
そう言うと、吟遊詩人はゆっくりと顔を上げ瞳を開いた。
それは何という色だろう。
メイドのロップルダは、思わず息を呑んだ。
月船湖の青さを宝石にたとえた言葉は知っている。
では、この詩人の瞳は何に例えればいいのだろうか。
それは、広大な自然の前で言葉を無くすのに似ていた。
圧倒的な説得力を秘めたこの星の太古からの蒼。
気がつくとロップルダは、我知らず大きくうなずいていた。

レオンとヴォルフは、中庭に案内された。
レオンの約束を聞いていたフォルスは、いくら何でも一曲でリリスの気持ちを動かすことなど出来ないと呆れて見せたが、自分には責任があるからと言って勝手に同行してきた。
中庭に着くと、レオンは竪琴の弦の調子を確かめるように二、三度爪弾く。
軽やかで美しい音色が中庭に躍った。
「ヴォルフ、追打(バルダ)の鼓(ドム)を頼めるか?なに、カンタンなやつでいい」
竪琴の調律が済んだレオンは、ヴォルフに向かって少しいたずらっぽく笑いかけた。
「別にいいが、鼓(ドム)はどうする?」
「大地に頼むさ」
レオンはそう言うと、中庭の一角に四角を描いた。
途端、露出していた土が硬化し、滑らかな石版に変じる。
「踏鼓(ステップ・ドム)か、そいつはいい。少し動きたいと思っていたところだ」
ヴォルフはレオンの用意したステージに立つ。
ヴォルフの履いている底の固い靴が、カツンカツンと快い音をたてた。
「おーし、いいぜレオン!」
レオンの竪琴が始まる。
流れる旋律にからみ合うように、ヴォルフの踏鼓(ステップ・ドム)が重ねられ、それは聞く者の心を揺さぶるリズムになった。
もともと追打(バルダ)というのは、魔詩のための補助魔法であり、一定のリズムを刻むことで、術の進行を速やかにする効果があった。
だが、レオンの選んだ詩は魔詩ではない。
それは、月の愛娘が地上に降りた月船湖の昔話を謳った古詩だった。
ただし、意訳なうえにハイ・テンポにアレンジされていたが。
「娘よ聞きなさい 大地に降りた娘よ
 あたたかな陽ざしは 金の髪かざり
 輝く湖水は 青いドレス それがお前の花嫁衣裳
 鏡に写した祝福の形 それが月船湖
 抱きとめたのは 一人の若者
 深く 青い 喜びはお前たちのため
 鳥さやく春 魚はねる夏
 風わたる秋 雪つもる冬
 共にあれ 共にあれ」

レオンの歌声はまさしく珠玉だった。
婚礼の寿歌として時々歌われる古びた古詩も彼の手にかかると、熱い恋詩に聞こえた。
朗々と中庭に響き渡る彼の歌を耳にした者は、誰一人の例外なく立ち止まり聞き入ったことだろう。
事実、最上階の端の部屋にいたリリスの耳にも彼の歌ははっきりと届いた。
リリスは正直驚いていた。悲しみに自分の心は何も感じなくなっていたと思っていたからだ。
だが、ほほを涙が伝っている。そして、これは悲しみの涙ではない。
陽ざしも、外への希望も、すべてを閉ざしていた窓のカーテンを娘は震える手で少し開ける。
光のあふれる中庭で、見知らぬ男が歌っていた。
和弦の最終の音が余韻と共に終わると、男は深々と頭を垂れる。
屋敷のあちこちから拍手が巻き起こった。
リリスはカーテンの陰からその様子を見守っていたが、フォルスが強引に男をつれていこうとしてるのが見えた瞬間、勝手に手が動いていた。
「リリス!?」
フォルスは最上階を見上げて驚きの声を上げる。
リリス=フォールダは窓を開いて三人を見下ろしていた。
「もう一曲いかがですか?お嬢さん」
柔らかな微笑を向ける吟遊詩人に、娘は小さくうなずいてみせた。

【第4章 噂W 『月涙草』】
フォールダ家の広間に通されたレオンとヴォルフは、うって変わって丁重なもてなしを受けた。
どうやら状況の面白くないらしいフォルスは、あからさまに不機嫌な顔をしている。
やがて、着替えを済ませたリリスが広間に姿を見せた。
リリス=フォールダは、長い栗色の髪をきちんと耳の横に編みこみ、白いサマードレスを着ている。
小柄だが、青みがかった緑の瞳の美しい娘だった。
「リリス、心配していたんだよ」
フォルスが優しげに声をかけるが、なぜかリリスは目線を合わせようとはしなかった。
困った様子でうつむくリリスに、レオンは静かに歩み寄る。
「医者の所見では、喉にも舌にも問題はないとのことだ。だとすれば、君がケガをしたのは心ということになる」
ゆっくりとした柔らかな口調でレオンはリリスに語りかける。
「傷に薬を塗るには、一度自分できちんとケガをしている部分を確認しなくてはいけない。分かるね」
青ざめたリリスがすがるようにレオンを見上げる。
その瞳には涙があふれていた。
「大丈夫、君に与えられたすべての祝福を、温かいと知覚する心があるなら、失われたものは何ひとつない。例え形を失ったとしても、必ず君の傍らにあるはずだ」
そう言うと、レオンはまた竪琴を弾きはじめた。
琴の音は、高く低く時には激しくそして優しく流れてゆく。
それは、まるで移りゆく季節のようだった。
その美しい調べに、リリスは幼い頃から自分を大切にしてくれた姉の面影を垣間見る。
『リリス…元気を出して…』
優しかった姉の気配が、すぐ傍にあった。
痛みよりも喜びがリリスの胸をいっぱいにしてゆく。
「…姉…さん」
あふれる涙とともに、娘の唇に言葉が戻った。
「リリス!!」
フォールダ夫人は喜びのあまり叫んで娘を抱きしめた。
「母さま、母さま、姉さんが、姉さんが私の身代わりにっ!」
堰を切ったようにリリスの口をついて思いがあふれる。
「姉さまは私をかばってあの恐ろしい怪物に…あれは…あれは…っ!いやああっ!」
パン!
パニックを起こしかけたリリスの目前で、レオンが強く手をたたく。
はっと息を呑んで、リリスは正気を取り戻した。
「落ち着いて、怪物の姿を思い出すんだ。ゆっくりでいい。出来るな?」
まるで導きの星のようなティランの瞳に促され、リリスはまた小さくうなずいた。

リリス=フォールダは、途中何度かつまりながら事件の詳細をレオンに語った。
あの日、リリスとマリスは何者かに入江の桟橋に呼び出されて出かけたこと。
湖から現れた魚は、人型に近い形をしていたこと。
そして、口にたくさんの『月涙草(クレルス・ティア)』をくわえており、それをむりやり食べさせようとしたこと。
「月涙草?」
「はい、月船湖の深いところに生えているという水草です」
「簡単に人が潜って採ってこられるものではないな。では君はなぜそれが月涙草だとすぐ分かったんだ?」
レオンは用心深く出来事を整理してゆく。
「…以前見たことがあるんです」
「どこで?」
リリスはまたおびえたまなざしをレオンに向け、言葉を詰まらせた。
その時、リリスの言葉を継ぐ形で、意外な所から声が出た。
「ボクの家さ」
こともなげにフォルスは小首をかしげる。
「魔人形(モール・パペット)を使って採ってきたんだ。うちにはお抱えの術者がいるからね。月涙草はとても強力な媚薬になるんだそうだ。もっとも、採って数分の間しか効果はない。それでも話のタネになると思ってね。以前、仲間内で冷やかし半分に見たことがあるのさ。そうだろ、リリス」
フォルスの言葉に、リリスは小さくうなずくと目線を下げた。
「ありがとうリリス、参考になったよ。さあ二人共これで敵の人相も分かったろう、相当深い所に棲んでいるってことも分かったし屋敷に戻って対策会議だ!」
そう言うと、フォルスは勢いよく立ち上がり、後も見ずに歩き出した。
「お、おい、待てよ若だんな…」
勝手な行動に抗議しようとしたヴォルフをレオンは無言で制する。
そして、もう一度リリスを振り返ると、冬の陽ざしのような穏やかな微笑を向けてこう言った。
「大丈夫、魚は二度と君を脅かすことはない。姉上にもらった大切な命だ、大事に健やかに暮らすといい。君の元に太陽(ソル)と大地(マール)そして青き水(ルツファ)の祝福があらんことを」
吟遊詩人の言葉は不思議な説得力を持っていた。
彼が動くと云えば湖ですら姿を変えるかもしれない。
リリスは素直にうなずくと微笑を返した。




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